『overkill』by Vanda Symon 冒頭部試訳 その1

 その日、ギャビィ・ノウズは死ぬ運命にあった。前触れは何もなかった。災いを告げるフクロウの鳴き声も、不吉な鐘の音も。人を疑うことを知らない彼女の育ちのよさが、死神を招き入れたのだった。

 男は礼儀正しく身分証を見せ、この地区に通信障害が起きているので固定電話の回線をチェックしていると説明した。そして、お宅の電話はだいじょうぶですかと訊いた。ギャビィは、男と飼い犬のレイダーを玄関口に残して家のなかに戻った。電話は寝室にある。毎朝実家の母に電話するのが日課となっているのだが、今朝は娘のアンジェリカが初めて歩いた話に母が大興奮していたのを思い出して顔がほころんだ。

 居間のほうから、アンジェリカがおもちゃのブロックで遊んでいる音が聞こえてくる。

 寝室に入って電話の通話ボタンを押すと、たしかに発信音がない。

「ほんとだわ、回線が切れてるいみたい」ギャビィは玄関に戻りながら言った。「一時間前に母と話していたときはだいじょうぶだったのに。どこの家もこうなってるの?」

「このブロック一帯だけです。おそらく局所的な障害でしょう」と男は答えた。

「直るまでどれぐらいかかるのかしら」

「そうですね、お宅にあるモジュラージャックをひとつひとつチェックしていきますので」男はそう言いながらかがむと、足元に置いていた大きな黒い道具袋を持ちあげた。「二時間もあれば終わるかと」

 ギャビィは男のために玄関ドアを広くあけてやった。「わかったわ、どうぞ入って。あ、靴は脱いでくださる? カーペットを変えたばかりだからちょっともったいなくって」

「かまいませんよ」男は道具袋を置いて作業ブーツの紐をほどいた。「それで、モジュラージャックはどこでしょうか」

 ギャビィは廊下を進み、寝室を指さした。「そこにひとつ、それからその部屋の向こうのダイニングにひとつと」そこまで言うと、今度は手を右側に振った。「あとひとつはこの先の真正面の部屋よ。わたしは犬を別の部屋に入れておくから安心して作業してください」ギャビィはレイダーの首輪をつかんだ。

「どうも。じゃ、そこの部屋から調べていきましょう」男は寝室を指さすと、道具袋をどかせて玄関ドアを閉めた。

 ギャビィは、男が寝室に入って作業をはじめる様子をしばらく見ていた。

「じゃ、あとはおまかせするわ」そう言うと犬を奥の客間に入れ、居間に戻った。アンジェリカが、色とりどりのレゴブロックに囲まれて床にすわっている。ギャビィはかがみこんでその金色の頭のてっぺんにキスをしてから、洗濯の続きにとりかかった。洗い終わった衣類を洗濯機から出し、また汚れ物を入れる。たったひとりの子供が生みだす汚れ物の量には驚かされるばかりだ。最後のタオルを放りこんだとき、足音が聞こえた。振りむいて、ぎょっとした。電話会社の男がアンジェリカを脇に抱えてキッチンに入ってきたのだ。

「あ、あら、娘を拾ってくださったのね。さあ、ママのところへいらっしゃい、アンジェリカ」ギャビィは手をのばして娘を受けとろうとした。

 だが男は後ずさってテーブルの向こうへ行くと、ギャビィを見つめた。

「すわって」と男は言った。

「は? いいから娘をかえしてちょうだい」ギャビィはふたたび手をのばした。

「すわるんだ」男から愛想のよさはすっかり消えている。

「何を言ってるの? 娘をかえして」テーブルをまわって男に歩みよる。えもいわれぬ不安で胃がずしりと重くなった。

「すわれと言ってるだろ」その声には有無を言わさぬ響きがあった。男は右手のポケットから飛びだしナイフのようなものを取りだした。「かわいい娘だ。顔に傷がついたらさぞかし悲しいだろう」

 両脚はもはや体重を支えられなくなり、ギャビィは腰をおろした。心臓の激しく鼓動する音が頭のなかで響き、相手の声がよく聞こえない。視界の端が灰色にぼやけはじめる。深く息を吸い、自分に言いきかせた。気を失っちゃだめ。考えるのよ。何かを見つけなきゃ。なんでもいいから、武器になるものを。だがアンジェリカから目を離すこともできない。娘は見知らぬ男の腕のなかで、何も知らずに笑っている。

「事を簡単にするのも難しくするのもあんた次第だ」男はアンジェリカを揺すりながら言った。「あんたに書いてほしいことがある」

「お金がほしいなら、寝室に財布があるわ。持っていって。なんでも持っていって。だから娘はかえしてちょうだい」

「金? 金はいらない。そういう単純な話じゃない」

 男はナイフの先をそっとアンジェリカの顎に突きつけた。アンジェリカはきゃっきゃっと笑い、手をのばしてナイフをつかもうとしている。ギャビィは、胃の中身が逆流しそうになるのを必死で抑えた。吐くのも気を失うのも絶対に許されない。気をしっかりと持たなければ。どうか、男を刺激するようなことはしないでくれと祈るような視線をアンジェリカに向ける。しかし、すぐに恐怖を上まわる怒りがこみあげてきて思わず立ちあがった。

「何が望みなのよ、この変態! もし娘を傷つけたらあんたを殺してやる。絶対に」

「残念ながら、今日死ぬのはおれじゃない」嘲るような笑みが男の顔に広がった。「言っただろ、事を簡単にするのも難しくするのもあんた次第だって。おれは仕事でやってるんだ。個人的には子供を傷つけるのは好きじゃない。ただあんたが協力してくれれば仕事をすませるとこができるし、子供も無事だ。だがもし面倒を起こしたら……」男はナイフをすばやく動かしてアンジェリカの髪の毛を切った。

 ギャビィは後ろに倒れこむようにふたたび腰をおろし、床に落ちるアンジェリカのカールした髪の毛を見ながら必死で吐き気と戦った。叫びたい衝動を抑えるため、口を両手で覆う。自制心を取り戻すのに数秒かかった。それからテーブルの上に両手を無理におろし、喉が締めつけられるような苦しさをこらえた。

「なんでもするわ」声を震わせながら言い、顔をあげて男の目を見た。「だから娘は傷つけないで。お願いよ。その子を放してちょうだい」

 男はギャビィが信用できるか考えていたが、やがてナイフをおろしてテーブルの上に置いた。そのときの、カチッという音にギャビィは震えあがった。

「ペンと紙を用意しろ。書き置きをしてもらう」

 ギャビィは手をのばし、電話の横にあるペンとメモ帳をつかんだ。手が震えているので、もう少しで落としてしまうところだった。「なんと書けばいいの?」

「そうだな、簡単なものにしよう。〝ごめんなさい、あなた。愛しているわ〟とか」

「なんですって?」

「教えてやるよ。あんたはこれから死ぬんだ。だから簡単に、遺書らしいことを書いてほしい。それだけだ。難しいことじゃないだろ? さあ」

 その言葉に、みぞおちを殴られたようなショックを受けた。口から嗚咽が漏れ、身体を支えるためにテーブルの縁【ヘリ】をしっかりとつかんでいなければならなかった。男は背が高く筋肉質で、体重はおそらくギャビィの二倍はあるだろう。アンジェリカは、母親の腕のなかに戻りたがって身をよじっている。あまりに信じがたい状況に、ギャビィはテーブルを拳で叩き、泣きじゃくった。

「ガキみたいなまねはよせ。あんたのためにも娘のためにもならないぞ。おれは道具入れを持ってくるから、それまでに気持ちを落ち着かせておくんだ。おかしなまねをしたらその代償を払うのは娘だからな」男はアンジェリカを抱えたまま後ろを向き、廊下を通って寝室に行った。

 考える時間はいましかない。自殺したと人に思わせてはだめだ。遺書など書くはずがないことをわかってもらわなくては。とっさに、震える手であることを書き、そのページを破って丸め、キッチンの隅の、古新聞を積みあげてあるところに投げた。うまくすれば、誰かに見つけてもらえるかもしれない。

 男の戻ってくる足音がもう聞こえてきた。深く息を吸う。依然として心臓は早鐘を打っていたが、気持ちは妙に落ち着いてきた。この状況が他人事のように思え、自分はただの傍観者になったような気がした。すると、あることが頭に浮かび、それは質問となって口から出た。

「なぜ?」(続く)