『Hunted』冒頭部試訳その1

 フクロウがサイの飼育舎に巣を作ってから一カ月以上が過ぎていた。雛はもう巣立とうとしている。

 ジェーンは屋根の隅にとまっているメスのフクロウを見つめた。特に注意をしていなければ見落としてしまいそうなほど目立たない。長い耳と閉じた目は屋根の構造の一部に溶けこんでいる。褐色と灰色の縞模様の羽根は風雨にさらされた樹皮のようだ。擬態である。巣はうまく隠してあり、オスのフクロウは支柱の陰に身を潜めている。

「いい子だ、ダグラス。あと少しだ」飼育係のフェストが言った。

 フェストは刺激臭のする黄色い軟膏をダグラスのひび割れた皮膚にすりこんでいた。今季は例年になく乾燥しているため、泥のなかを転げまわるという動物にとって必要な行為ができない。もっとも、ダグラスは乾燥など全然気にしていないようだ。体高二メートル弱、体重三トンの巨大な動物は、フェストが体表に軟膏を塗るあいだ、のんびりと陰のなかで寝そべっている。

「よし、終わった。次はマッサージだぞ。そのあとはお昼だ」 

 フェストは藁が敷かれた床を横切って隅にある台から穂先が荒い箒【ほうき】を手にとった。ダグラスは鼻を鳴らして立ちあがり、大きな身体をぶるっと震わせる。ジェーンはその様子を見つめていた。フェストは笑顔で箒をバトンのようにくるくると回しながら飼育舎を出て放牧場に行く。ダグラスものっしのっしとフェストのあとをついて行く。

 ジェーンはライフルをつかみ、彼らを追った。

 正午を少し過ぎたばかりで陽射しがもっとも強い時間ではあるが、このライキピア高原は暑すぎず寒すぎず、快適だった。干ばつは二年目に入り、土地に変化をもたらしている。草は枯れ、残っている植物は、まわりの丘のあいだを流れる小川や水路沿いに生えている木と灌木だけになっている。それらの葉の色も黄色や茶色が目立ちはじめ、地表は乾ききっていた。

 フェストは長い箒を回しながらゆっくりと放牧場を歩いた。空気を切るビュッビュッという音が続く。ダグラスがその後ろを歩く。アカシアの木陰まで来ると、フェストとダグラスは足をとめた。

 ライフルを肩にかけたジェーンは彼らから離れすぎないところに位置を取り、双眼鏡で周囲をくまなく見渡した。

「二分だけだからな。そのあとにゴハンだ」フェストがダグラスに話しかける。

 ジェーンはいつものように、しばし警戒を解いてフェストがすることを眺めた。

 箒を使ってダグラスの横腹を掻く。ダグラスは気持ちよさそうに鼻を鳴らしている。腹にこびりついていた乾いた泥が落ちて、埃が舞いあがっている。フェストは丁寧にこの巨大な動物の片腹を掻いてやると、反対側に回って同じように丁寧に掻いてやった。

「二分過ぎたぞ。さあ、お待ちかねのお昼だ」

 ダグラスはマッサージの続きを期待してしばらく動かずにいたが、やがて諦めて寝そべった。前肢をぎこちなく身体の下にたくしこみ、後肢を交差させる。目は閉じられ、耳はぴくぴくと動いている。鼻から吹きだす荒い息のせいで角のまわりに埃が舞っている図は、山にかかった霧のようだ。数分後、呼吸は落ち着いた。

「どうした? 腹は空いてないのか?」フェストはジェーンに目くばせをしながら言った。彼はダグラスの頭の横にしゃがみこんだ。その身体とダグラスの頭は大きさがほぼ同じだ。ダグラスの閉じた目から流れる涙が光っている。フェストは布を取りだしてやさしく拭ってやった。ダグラスは生まれたときから動物園のコンクリートの上で暮らしてきた。その後、花粉症にかかっているとわかり、ケニアに送られてきたのだ。

「日焼けと花粉症でつらいんだな。おまえ、本当にアフリカ生まれなのか?」フェストはダグラスの角を撫でながら言った。ダグラスは片耳をぴくぴくさせた。「目薬を持ってこよう」フェストが飼育舎に戻っていく。

 ジェーンはふたたび双眼鏡で周囲を確認した。

 飼育舎にはほかにも多くの動物がいて、肉食動物が侵入できないように電子柵がめぐらされている。ゾウは電子柵の怖さを学んでいるので入ってこようとはしない。ダグラスといっしょにそこで暮らしているのはオリックスとジャクソンハーテビーストという二種類のアンテロープ、それにグレビーシマウマだ。ジャクソンハーテビーストとは変わった名前だが、顔も独特だ。視界にオリックスが入ってくる。その角は空に突きささりそうなほど鋭く、V字型にのびている。

 東側の向こうにある隣の飼育舎にはキタシロサイが二頭いる。ダグラスの娘と孫娘で、名前はウズリとネーマ。二頭は枯れた草をはんでいた。木陰には警護にあたっているふたりの自然保護官【レンジャー】がいる。その姿は地平線を背にしてシルエットになっているが、肩にライフルを掛けていて、ひとりが双眼鏡を目にあてているのがわかる。

 このふたつの飼育舎の向こうの、四方に広がる土地はすべてバンダリ自然保護区に含まれている。ジェーンがいまいる場所からは、双眼鏡を使っても境界線のフェンスは見えない。この保護区は観光客の宿泊施設、放牧場、レンジャー事務所、犬舎、さらに何百種類もの哺乳類、鳥類、は虫類、両生類、昆虫が生息する四百平方キロメートルのサバンナで構成されている。

 ジェーンは双眼鏡を置いて空をあおぎ、ひと息ついた。

 頭上を大きな鳥が飛んでいく。尾が二股に分かれている。タカか、大型のワシだろう。もう遠くにいるが、鳴き声が鋭く響いてくる。

 フェストが戻ってきた。帽子のつばの下から満面の笑みが覗いている。彼はウガンダ山麓に住むキガ族の出身で、ほっそりとした身体つきの穏やかな男性だ。片手で目薬が入った大きなボトルを、もう片方の手で固形飼料【ペレット】が入った袋を抱えている。サイは高原の枯れた草よりもペレットのほうを好む。ペレットの袋が地面に置かれると、その音に気づいてダグラスが頭を上げた。

 ダグラスは地球に残されたキタシロサイのオスの最後の一頭だった。ゆえにこうして管理の行き届いたところにいるのだ。