『The Bird Tribunal』冒頭部試訳 その2

 シーグルの寝室は一階の、キッチンと居間の先にあった。おそらく窓は庭に面しているだろう。仕事部屋へは寝室を通ってしか入れないようになっている、と彼は言った。

「ぼくはだいたいいつも仕事部屋にいる。長い時間こもっていることが多いが、できるだけ邪魔されたくないんでね」

 わたしは、それが重要なことだと理解していることを示すために大きくうなずいた。

「悪いが車はないので自転車を使ってくれ。店はここから北へ二キロほど行ったところにある。道路ぞいだ。朝食は八時。固ゆで卵を二個、酢漬けのニシン、ライ麦パン二枚、ブラックコーヒーを頼む」彼は一気にまくしたてた。

「週末はきみの自由時間だ。好きに過ごしていい。だが外出しないのなら、いつもより一時間遅れでかまわないから朝食を用意してくれ。昼食は午後一時。軽くでいい。夕食は六時。食後にコーヒーとブランデーを」

 ひととおりの要求を述べると、シーグルは仕事部屋に入っていった。わたしはキッチンでひとりになった。調理器具は古いがまだ充分使える。大きな音を立てないよう気をつけながら、引きだしや食器棚をあけてみる。冷蔵庫のなかにタラの身があった。夕食にはそれを使おう。

 

 キッチンの引きだしのいちばん下に畳んだテーブルクロスがあった。それをテーブルに広げ、急いでふたり分の食卓を整える。

 シーグルは六時きっかりに部屋から出てくると、テーブルの上座についた。料理を待っている。わたしはタラを調理したものを載せた皿をテーブルの真ん中に、ポテトが入ったボウルをシーグルの正面に置いた。そして自分もテーブルにつこうとして椅子を引いたとき、彼に手を振られてとめられた。

「きみはあとで食べなさい」わたしとは目をあわせず、真正面を見つめている。やってしまった。たぶん彼の指示を聞きのがしていたのだろう。

 喉がつかえたような苦しさを覚えながら、何も言わずに急いで自分の皿をキッチンにさげる。みじめで、顔をあげられなかった。

 シンクに水を溜め、シーグルが食べているあいだにフライパンやスプーンを洗った。彼は音も立てず、一度も顔をあげずに食べている。わたしは慣れない手つきでコーヒーを淹れ、シーグルの背後のガラズ棚からブランデーを取りだした。彼がフォークとナイフをテーブルに置いたのを合図に食器をさげる。コーヒーとブランデーをトレイにのせて運ぶ。手が震え、カップとグラスがぶつかってカタカタと鳴った。

 ようやくシーグルは立ちあがり、短く礼を言って仕事部屋に戻った。わたしは自分の皿をテーブルに持ってきて、残ったポテトに溶けたバターをかけて冷めた料理を食べた。最後の洗い物を終えてテーブルと調理台を拭き、自分の部屋にあがった。荷ほどきをし、服や靴下や下着をたんすに入れる。本は机の上に積みかさねた。

 携帯電話は、電源が切れているのを確かめてから引きだしに入れた。緊急時でもないかぎり、電源を入れるつもりはない。完全な静寂のなかで、物音を立てないように気をつけながら、ひとまずすわる。階下からはなんの音もしない。バスルームで用をすませ、ようやくベッドに入った。

 

 鎌の刃はなまくらにちがいない。わたしは悪態をついた。渾身の力をこめて振りおろしても、湿った黄土色の雑草は横に倒れるだけで、刈られる運命を逃れていく。空はどんよりとしていて、空気は湿っている。シーグルは朝食のあとすぐに仕事部屋に入っていった。わたしは庭に出るまえに鏡を見たが、そこにうつっていたのはコスプレみたいな格好をした女だった。ズボンはかれこれ十五年も前の夏に実家のペンキ塗りをしたときに穿いていたもので、二、三日前、ここに来るための荷造りしているときに、たんすの奥からペンキのついたシャツといっしょに出てきたものだ。その翌日家を出るとき、両親はほっとしたような顔でわたしを送りだした。

 腰が痛くなってきた。シャツは汗でびっしょりになっている。飛んでいる小さな虫がまとわりついてきて痒い。顔を掻くためにしょっちゅう作業を中断して手袋を脱がなければならない。黄土色の雑草の長い茎は、無駄な努力をあざ笑うかのように微風のなかで揺れている。わたしはふたたび力をこめて鎌を振りおろした。

「ぼくなら熊手を使うよ」

 振りかえるとシーグルが立っていた。わたしの姿は彼の目にさぞ滑稽にうつったにちがいない。十五年前のぼろを着た、汗だくの女。髪の毛が顔に貼りついていたので、思わず手袋をはめた手で髪をかきあげる。そのとき、額に泥がついたのがわかった。

「濡れた草は、鎌では刈りにくいんだ」

「そうですね」笑顔を作ろうとしたが、やっぱりやめた。これ以上愚かなことはしたくない。

「昼食を忘れないでくれ」シーグルは時間を思いださせるように腕時計を指先で軽く叩くと、背を向けて去っていった。わたしはすばやく顔をあげた。上にはシーグルの仕事部屋の窓がある。彼は窓際から監視していたのだろう。そしてでたらめな庭仕事に我慢ならなくなってやってきたにちがいない。恥ずかしさがこみあげる。鎌を拾って道具小屋に戻し、かわりに鉄製の熊手をつかんだ。それを使って地面から草を乱暴に引きはがしていく。やがて手押し車はしおれた草でいっぱいになった。

 

 自転車は、道具小屋の裏に積んである薪にたてかけてあった。プジョー社製の古くて軽いグレーの自転車で、タイヤは細く、ハンドルにはホーンがついている。

 店までは十分とかからなかった。橋をわたってすぐの角にあるその店は、そこだけ時間がとまっているかのような、小さな食料雑貨店だった。入り口のドアをあけると、上についているベルが鳴った。客はひとりもいない。カウンターの向こうにいる年老いた女がこちらに向かって軽く会釈した。各棚には包装された食品、キッチンペーパー、蝋燭、種類の少ないパンなどが並んでいる。冷凍の陳列ケースもある。果物や野菜は量り売りされている。

 老いた女主人の鋭い視線が背中に突きささってきた。その視線は、半分も埋まっていない棚のあいだを歩くわたしを執拗に追いかけてくる。間違いない。わたしが誰か知っているのだ。胃が締めつけられるような感じがし、いますぐにでも買い物かごを置いて逃げだしたくなった。なんとか女主人のところまで行き、彼女の目を見ずに買い物かごをカウンターの上に置く。レジを打つ老女の顔からは、何を考えているのかは読めない。手と顔は皺だらけで、口は小さく、口角がだらりとさがっている。そのとき、ふと思った。この女主人はもともとこういう感じのひとなのかもしれない。そう考えると急に気が軽くなった。わたしのことを知っているわけではない、きっと誰にでもこうなのだ。

 自転車を漕ぎ、右手にフィヨルドを、左手に黒々と湿った岩壁を見ながら急いで家に向かう。サドルバッグに荷物を詰めた自転車で、隣町に通じる道路を走るわたしの横を車が何台も通り過ぎていく。スピードを保ったまま傾斜した私道に入り、その坂をくだって森を抜け、薪が積んであるところまで来ると自転車を降りた。そこから砂利道を歩いて玄関へ行き、家に入った。

 ここは何かがおかしい。夫婦の家なのに庭は荒廃しきっている。車もなく、夫は一日中仕事部屋に閉じこもっている。妻はこのとおり、家にいない。漠然とした不安を感じながら買ったものをしまい、夕食の準備にとりかかった。