『The Bird Tribunal』冒頭部試訳 その1

『The Bird Tribunal』冒頭部試訳 その1

 

 息が上がってきた。しんとした森のなかを、もうずいぶんと歩いている。たまに、鳥の甲高い鳴き声が聞こえてくる。灰色の裸の木やひょろ長くのびた若木、わずかに青緑色がかったビャクシンの若枝に四月の弱々しい陽光があたっている。大きな岩にそってカーブした小径を進むと、下草がのび放題になっているシラカバの並木道が見えてきた。どの木も天辺のほうの枝が作りかけの鳥の巣みたいにもつれている。並木道の終わりまでくると、白い塗料が禿げかけた杭垣と門があり、その向こうにスレート屋根の古風な木造家屋が建っていた。

 静かに門をあけてポーチの階段をのぼり、玄関ドアまで行く。ノックをするが、返事はない。拍子抜けした気分になった。荷物をポーチの階段に置き、家のまわりを囲んでいる砂利道を進む。灌木が密生している家の側面をすぎて裏手の庭に出ると、すばらしい眺めに迎えられた。頂上のところどころに雪が残っているスミレ色の山並み、その手前にはフィヨルドが広がっている。

 男は、庭の奥に植わっている細い樹木のそばに立っていた。紺色のウールのセーターに包まれた大きな背中をこっちに向けている。挨拶をしようと思って声をかけると、飛びあがるように驚いて振りかえった。そして片手をあげ、重そうなブーツを履いた足で黄土色の地面を横切ってこっちにやってくる。わたしは深呼吸をした。男の顔つきと身体を見るかぎり、歳は四十代ぐらいで、少なくとも介護を必要としているようには見えない。驚きを笑顔で隠して数歩近づいた。男の肌は浅黒く、体格はがっしりとしていて、わたしと視線をあわせないように前方を見据えたままでいる。

「シーグル・バッゲです」と彼は言った。

 わたしは、アリス・ハグトーンだと名乗り、さしだされた大きな手を軽く握った。彼の表情に、こっちを知っているような様子はない。もっとも、演技がうまいだけなのかもしれないが。

「荷物は?」

「向こうに」とわたしは答えた。

 シーグルの背後の庭には、灰色の冬の悲惨な爪痕が残されていた。草木は枯れ、藁は水びたしになり、バラは絡まり放題になっている。このままだと春が来たら――もうすぐそこまで来ているが――ジャングル状態になるだろう。彼はわたしの気持ちを察して言った。

「そう、手入れが必要なんだ」

わたしは微笑んでうなずいた。

「ここは妻の庭でね。彼女が留守のあいだ手入れをしてくれる人がほしかったんだ」

 シーグルのあとについて玄関に向かった。彼はわたしの荷物を片手にひとつづつ持って家の中に入った。

 

 

 古い階段をのぼり、これから使う部屋に案内された。幅のせまいベッド、たんす、机があるだけの、簡素な部屋。清潔な匂いがする。ベッドは花柄のシーツで整えられている。

「いい部屋ですね」

 シーグルは何も言わずに振りかえり、頭をかしげてバスルームの場所をさし示してから部屋を出て階段をおりた。踊り場にドアがあったが、なんの部屋なのか説明はない。

 彼の後ろにくっついて家を出て庭を横切り、敷地をまわっていくと小さな道具小屋があった。きしんだ音を響かせながら、シーグルが木造の扉をあけた。鋤、シャベル、金梃などが壁に掛かっている。

「長い雑草には鎌だよ。使い方は知っているかな」

 わたしはうなずいて唾を呑みこんだ。

「必要なものは、だいたい揃っている。剪定ばさみやなんかもあるから、生垣も刈ってくれたら助かるよ。足りないものがあったら言ってくれ」

 話しているあいだも目をあわせようとはしない。雇い人とは、最初にしかるべき距離を保つことが肝心だと思っているのだろう。

「求人に応募してきた人はたくさんいたのでしょうか」

 シーグルは額にかかる黒い前髪の下からわたしをじろりと見た。

「何人かね」

見栄を張っているような感じだった。だが、そんなふうに思っていることは顔に出さないようにした。彼は雇い主であり、気分ひとつでこっちをどうにでもできるのだ。

 わたしたちは引きつづき家のまわりを歩いて庭に入り、乾いた石壁ぞいに植わっている果樹を通りすぎた。空気はすがすがしく、湿った土と落ち葉の匂いがする。シーグルは低い鉄の門をまたぐと、振りかえってこっちを見た。

「錆びついてあかないんだ。これもなんとかしてほしい」

 わたしも門をまたぎ、シーグルを追って庭の隅から下のフィヨルドへと続く急な石段をおりた。おりながら石段を数えると、ちょうど百段あった。下に着くと、いまにも崩れそうな舟小屋と石造りの小さな桟橋があった。桟橋の右側にはボートが繋げるようになっている。フィヨルドの岩壁がまわりを半円状に取りかこんでいるので、プライバシーは完全に保たれている。なんとなく、三十年近く前の夏に家族で過ごした知り合いの別荘に似ている気がした。そういえば、はじめて泳ぎを覚えたのもあそこだった。

「きれいなところですね」

 そのうち舟小屋を取り壊そうと思っている、とシーグルは顔をそむけながら言った。フィヨルドから吹いてくる風が彼の髪を乱した。

「ボートをお持ちなんですか?」

 いや、とそっけない答えが返ってきた。「このあたりには、きみにやってもらうことはない。ただ一応案内しておこうと思ってね」

 シーグルはくるりと後ろを向くと、もと来た道を戻って石段をあがっていった。

(つづく)