『overkill』by Vanda Symon 冒頭部試訳 その2
男が戻ってきて道具袋をテーブルの上に叩きつけるように置いた。
「なぜ?」ギャビィはもう一度言った。「なぜこんなことをするの? わたしがあなたに何かした?」
「おれに? 何もしてない。おれはただ仕事をしているだけだ。まずいことってのは、いつ起こるかわからないもんなんだよ」男は滑り落ちそうになったアンジェリカを抱えあげた。「早く遺書を書け。おれを本気で怒らせるまえに」
ギャビィはペンを持ち、なんと書けばいいか考えた。自分の意志ではない、強制されたものだということをわかってもらうにはどう書けば? 自殺なんて考えたこともなかった。この数カ月はひどくつらかったけれど、夫を愛していたし、心の糧となっている娘もいる。ロッキーもそのことをよくわかっている。母だってそうだ。アンジェリカを残して死ぬはずがないとわかってくれるはずだ。
ギャビィは立ちあがった。男の筋肉が張りつめた。しかし彼女がテーブルの上のティッシュに手をのばしただけとわかり、力を抜いた。ギャビィは窓の外を見たが、そこには誰もいなかった。助けは望めない。自分でなんとかするしかない。使用済みのティッシュをポケットに押しこみ、さっきこっそり書いたメモを向こうに放ったこと後悔した。だが、いまさら悔やんでも遅い。いや、やっぱりそれでよかったのかもしれない。ポケットに入れたらいずれ男に見つかっていただろう。
深呼吸をし、遺書に集中する。慎重に文字を書いていく。手の震えによる乱れを最小限に抑えるよう努めながら。これに込めた意味が伝わることを願うしかない。何かおかしい、妻らしくない、とロッキーが気づいてくれることを願うしかない。
「書いたわ。ほら」
「物分りがよくなってうれしいね」男はそう言ってギャビィのそばにやってきた。
男がメモを読むあいだ、ギャビィは固唾を飲んだ。
「いいだろう。やればできるじゃないか」男はギャビィの頭を、犬にするみたいになでた。ギャビィは男に触れられて震えあがった。
アンジェリカはぐずりはじめていた。男の腕から身を乗りだし、母親のほうに手をのばしている。ギャビィも手をのばしたが、男は赤ん坊を抱えてテーブルをまわり、向かい側の席に戻った。
「今度は何?」ギャビィは抑揚のない声で訊いた。背を丸め、両手を力なく膝の上に置く。男とギャビィのあいだのテーブルに置いてある道具袋は、彼女と娘をさえぎる障壁にもなっている。
「仕事に取りかかる」
男は道具袋のファスナーを全開にした。中から小さなロールケースを取りだし、アンジェリカの手が届きそうなところに置く。つぎに大きな黒い布を丸めたものを出し、それをカーペットの上に広げていく。ギャビィの心臓はとまりそうになった。胃液がこみあげてくる。それは、映画によく出てくる死体袋だった。
「これからあんたにするのはこれだよ」男は最初に取りだしたロールケースを広げた。なかには数本の注射器、細長い小瓶、錠剤が一個づつアルミシートに包装された処方薬の小箱が入っていた。「まず注射を打つが、できるだけ痛くないようにしてやる。抵抗したり余計なことをしたら、娘を殺しておまえがやったように見せかけてやるからな。言うとおりにすればそんなことはしない。娘も放してやる」
ギャビィは、向かい側で道具袋を覗いているアンジェリカを見た。とめどなく溢れだす涙を、こらえることができない。
「娘を放すって、どうやったら信じられるのよ」ギャビイは弱々しく言った。
「ほかに選択肢があるか?」
ギャビイは、男が注射器で小瓶のなかの液体を吸いあげる慣れた手つきを見つめた。もし、いま飛びかかったら……と一瞬考えた。注射器を奪って男の首にさす――だめだ、男の身体が大きすぎる。そばにはアンジェリカがいるのだ。男は自分のやっていることを熟知している。言うとおり、これは仕事のひとつにすぎないのだろう。
「水を一杯持ってこい」
ギャビイが顔をあげると、男は赤ん坊の後ろにまわって薬液が入った注射器をその肩にあてた。アンジェリカは空になった小瓶で遊び、それを口に持っていこうとしている。
「だめよ、アンジェリカ。それはマンマじゃないの」ギャビイはそう言って思わず立ちあがり、ガラス瓶を取りあげようとした。
「水を持ってこい!」
ギャビイは手を引っこめた。
キッチンに入って食器棚からグラスを取りだし、それを持ってシンクまで行ったとき、ラックに立てかけてある包丁に目がいった。後ろを見ると、男と目があった。男は、なんだ? と言うように眉毛を吊りあげると、アンジェリカの髪を指で梳きはじめた。ギャビイは目をそむけ、グラスに水を入れた。テーブルに戻って椅子にすわる。グラスをきつく握りしめる。
男は錠剤の小箱をギャビイに向けて放った。ギャビイはそれをつかみ損ねた。小箱は彼女の胸にあたってテーブルの上に落ちた。
「それを飲め。五錠か六錠ぐらいでいい」
震える手で箱を開け、アルミシートから錠剤を取りだして掌【てのひら】に四つのせる。ひとつは床に落ちた。
「拾え」前かがみになって拾おうとしたが、指がすべってなかなかつかめない。ようやくつかみ、さっき出した錠剤の横にそっと置いた。横目で小箱のラベルをちらりと見たとき、全身が凍りついた。処方箋の氏名欄に書かれていたのはギャビイの名前だった。
「いったいどういうことなの? わたしが何をしたっていうのよ。こんな仕打ちをされるようなことをしたの? お願い、教えて」
「知らないね。おれは仕事をやって金をもらうだけなんだ。わかったら黙って薬を飲め」男はアンジェリカの髪の毛を後ろに引っぱって、喉に注射針を突きつけた。
「やめて!」ギャビイは叫んで立ちあがった。アンジェリカは髪を引っぱられるのを嫌がって甲高い声をあげ、手足をばたばたさせている。男がようやく手を離すと、アンジェリカは頭をさすりはじめた。顔には赤い斑点がまだらに広がっている。「飲むわ、飲むから」錠剤を口に放りこみ、吐かないようにグラスの水を全部飲んだ。それから、手をのばして懇願した。
「お願い、抱かせて、お願い」
「まだだ」男は居間に向かって頭を動かした。「あっちに行ってソファに横になれ」
いうことのきかない脚をやっとのことで動かしながら、テーブルをまわって居間に行く。アンジェリカは、自分を捨てて自殺した母親をどう思いながら成長していくのだろう。涙があふれでて、頬を伝う。
だめだ。
そんなことはできない。戦わずに言いなりになってはだめだ。決心が鈍るまえにギャビィはくるりと向きを変え、男に飛びかかった。
瞬時に、残酷な仕打ちを受けた。
男は赤ん坊を床に落とした。アンジェリカは火がついたように泣きだした。ギャビィは胸が張り裂けそうになった。そのとき男の大きな手がのびてきて喉に布をまきつけた。身体を持ちあげられて足が宙に浮く。どんなに動いても、足は空気を蹴るだけだった。やがてソファの上に放りなげられた。その衝撃で肺から空気が全部抜けてしまったような気がした。すぐさま男はアンジェリカの髪の毛を引っぱって拾いあげた。