『Hunted』冒頭部試訳 その2
午後二時少し前に交代要員のトニー・カナギが到着した。飼育舎を通って放牧場にやってくると、ヒスワリ語でフェストに挨拶をしたあとまっすぐジェーンのいるところへやってきた。
「オル・ファラジャのレンジャーから聞いたんだが、C76号線の北側の廃屋に銃を持った男たちが集まってるらしい。調べに行くと言ってくれたんだが断ったよ。うちが行くからって」
「じゃ、わたしが見てこようか」ジェーンは特に行きたいわけでもなかったが、状況を察して申しでた。
「助かるよ。例の試合のせいでレンジャーの人手が足りないんだ」今日は隣のオル・ファラジャ自然保護区のスタッフと恒例のサッカーの試合が行われている。「まあ、たいしたことじゃないだろう。こんな真っ昼間に何かしでかすわけがない。その廃屋から五キロと離れていないところには軍の基地もある。そいつらが密猟者だとしたら、かなり頭の悪い連中だ」
「密猟者かもしれない。何人かレンジャーを呼び戻したほうがいいんじゃない? そいつらの頭は悪くても銃を持っていたら殺すことはできる」
「そこまで気にすることはないよ。それに、試合中の人員の補充には手を打ってある。休みの者にも無理を言って来てもらうことになってるから」
ジェーンはうなずいた。
「怪しい連中が目撃されたのはいつ?」
「三十分前だ」
「場所は?」
「ンダラグワラのゲートから二、三キロいったところだ」
トニーの後ろにいたダグラスは、身体を起こしてペレットを食べはじめた。
「わかった。交代が来たら行ってみる」
「ありがとう」トニーはほっとしたようだった。それからヒスワリ語でフェストに何か話しかけたが、ジェーンにもおおよその内容は聞きとれた。「いいか、密猟者にゴールを許すんじゃないぞ。ここの飼育員【キーパー】はおまえなんだからな。あと、あのフクロウは追い出せ」トニーは飼育舎のほうに手を振ってそう言うと、車に戻っていった。
ジェーンはダグラスが餌を食べる様子を見つめた。彼の警備に就いて三年になる。一週間に六日、毎日八時間。休みは週に一日と一週間おきに週二日。ダグラスにはとにかく驚かされる。起きているあいだじゅう腹を空かせているのだ。しかしさすがに歳を取るにつれて食欲は落ち、寝る時間が長くなってきている。
鼻の上には六十センチほどの角が生えていたが、密猟者に狙われないように獣医が切りおとした。サイの角は毛髪と同じ成分でできている。言わば毛が圧縮されて固まったようなものだが、イエメン、ヴェトナム、中国の闇市場では金よりも高値で取引されている。なので獣医はダグラスの肢に追跡装置を埋めこんだ。おかげでレンジャーはダグラスの位置をつねに把握することができる。だが角は切ってもまた生えてくる。いまは二十センチほどまでのびていた。
数分がたち、ほかの交代要員がやってきた。サッカーの試合のせいで午後はレンジャーも飼育員も人手が足りなくなっている。交代要員も充分とはいえないが、足りない分はテクノロジーがカバーしている。上空には監視用のドローンが飛び、柵にはモーション・センサーが取りつけられている。それらが功を奏し、この三年近くはバンダリ自然保護区のなかで殺された動物はいない。
ダグラスの警備にやってきた臨時の交代のレンジャーはネイサン、ティム、ジョモの三人だった。
最初に車から降りてきたのはティムだ。若くてやる気があり、普段から率先して空いたシフトに入ってくれる。サッカーが大好きでうちのエースストライカーでもあるが、あえて今日シフトに入ったのは、隣のオル・ファラジャのチームを破って栄光を手にするよりも、キタシロサイの警備を選ぶことでこの仕事への意気込みをアピールするためだろう。
次に降りてきたのはネイサンだ。彼もサッカーが大好きで、ティムより少し年上だ。そしてトニーの忠実な後輩でもある。トニーに頼まれていやとは言えなかったにちがいない。
ジョモが交代に入ったのは意外でもなんでもない。彼はフェストと同じウガンダ出身で、ふたりはバントゥー語で挨拶をかわしていた。
「ダグラスはどうだ?」ジョモが尋ねた。
「のんびりやってるよ。皮膚と目に薬をつけた。食欲もある。あとは下手なことを言って怒らせないことだ。文句を言うとわかるんだぞ」
「知ってる」ジョモは笑うと、放牧場から出て行くフェストの腕をすれちがいざまにつかんだ。
ネイサンはキタシロサイのメス二頭の警備をしているレンジャーと交代するために東側の放牧場に向かい、ティムはライフルを背負ってダグラスを監視できる位置に移動した。少しのあいだ、ジョモとジェーンはふたりきりになった。ダグラスは餌を食べつづけている。
「これから密猟者の目撃情報をたしかめに行かなきゃならない」とジェーンが言った。
「そうか。ここは大丈夫だから行って。ドローンが飛んでるし、番犬も放してある。誰も入ってこれないさ」
「わかってる」
「だったらなんでそんな顔してるんだ。ここはきみにとっていちばん安心できる場所のはずだろ? ぼくたちの新居もここの納屋にすべきかな」
ジェーンは笑った。
「心配することはないよね」
「ああ。昨日よりも平穏だ」
「そして明日は今日よりも平穏」
ふたりは一瞬指を触れあわせた。そのあとジェーンは放牧場を出て自分のランドローバーがとめてあるところまで行った。車のドアをあけたとき、南東方向の空にきらりと光るものが見えた。飛行機にしては大きすぎる。スーパーバッツ以外のものにしては小さすぎる。スーパーバッツとは、このバンダリ自然保護区の上空をパトロールしているドローンで、テクノロジーの塊だ。
運転席に乗りこみ、ライフルを足元に、双眼鏡と無線機を助手席に置いてエンジンをかけた。ンダラグワラのゲートまで来ると、とまってゲートをあけ、通ったあとはゲートを閉めて施錠した。そしてC76号線へと続く道を走り、C76号線に出るとそのまま渡ってライキピア高原を走る道に入る。その高原は密猟者にとって格好の狩り場となっている。
ツバメガンが少しのあいだ、この車の速度に合わせて空を飛んでいた。ハンターはツバメガンを避ける。毒があるからだ。その毒でツバメガンは捕食動物から身を守り、繁栄してきた。ツバメガンの好物の、毒を持つ昆虫が棲む湿地帯はここ何年かのあいだ、農地開発のためにつぶされてきた。それにともなってツバメガンの個体数も減少している。
ジェーンは、サイの飼育舎に巣を作っているフクロウのことを思った。あのフクロウはハトほどの大きさしかない。彼らはその姿や羽根の色で擬態をする特性を持っている。それは見事としか言いようがなかった。食べるものは主に昆虫で、それも夜のあいだしか食べない。特に悪さをするわけでもない。
だがケニアでは、フクロウは不吉な鳥とされてきた。フクロウが庭にやってきたら、それは誰かの死を暗示していると言われている。
『Hunted』冒頭部試訳その1
フクロウがサイの飼育舎に巣を作ってから一カ月以上が過ぎていた。雛はもう巣立とうとしている。
ジェーンは屋根の隅にとまっているメスのフクロウを見つめた。特に注意をしていなければ見落としてしまいそうなほど目立たない。長い耳と閉じた目は屋根の構造の一部に溶けこんでいる。褐色と灰色の縞模様の羽根は風雨にさらされた樹皮のようだ。擬態である。巣はうまく隠してあり、オスのフクロウは支柱の陰に身を潜めている。
「いい子だ、ダグラス。あと少しだ」飼育係のフェストが言った。
フェストは刺激臭のする黄色い軟膏をダグラスのひび割れた皮膚にすりこんでいた。今季は例年になく乾燥しているため、泥のなかを転げまわるという動物にとって必要な行為ができない。もっとも、ダグラスは乾燥など全然気にしていないようだ。体高二メートル弱、体重三トンの巨大な動物は、フェストが体表に軟膏を塗るあいだ、のんびりと陰のなかで寝そべっている。
「よし、終わった。次はマッサージだぞ。そのあとはお昼だ」
フェストは藁が敷かれた床を横切って隅にある台から穂先が荒い箒【ほうき】を手にとった。ダグラスは鼻を鳴らして立ちあがり、大きな身体をぶるっと震わせる。ジェーンはその様子を見つめていた。フェストは笑顔で箒をバトンのようにくるくると回しながら飼育舎を出て放牧場に行く。ダグラスものっしのっしとフェストのあとをついて行く。
ジェーンはライフルをつかみ、彼らを追った。
正午を少し過ぎたばかりで陽射しがもっとも強い時間ではあるが、このライキピア高原は暑すぎず寒すぎず、快適だった。干ばつは二年目に入り、土地に変化をもたらしている。草は枯れ、残っている植物は、まわりの丘のあいだを流れる小川や水路沿いに生えている木と灌木だけになっている。それらの葉の色も黄色や茶色が目立ちはじめ、地表は乾ききっていた。
フェストは長い箒を回しながらゆっくりと放牧場を歩いた。空気を切るビュッビュッという音が続く。ダグラスがその後ろを歩く。アカシアの木陰まで来ると、フェストとダグラスは足をとめた。
ライフルを肩にかけたジェーンは彼らから離れすぎないところに位置を取り、双眼鏡で周囲をくまなく見渡した。
「二分だけだからな。そのあとにゴハンだ」フェストがダグラスに話しかける。
ジェーンはいつものように、しばし警戒を解いてフェストがすることを眺めた。
箒を使ってダグラスの横腹を掻く。ダグラスは気持ちよさそうに鼻を鳴らしている。腹にこびりついていた乾いた泥が落ちて、埃が舞いあがっている。フェストは丁寧にこの巨大な動物の片腹を掻いてやると、反対側に回って同じように丁寧に掻いてやった。
「二分過ぎたぞ。さあ、お待ちかねのお昼だ」
ダグラスはマッサージの続きを期待してしばらく動かずにいたが、やがて諦めて寝そべった。前肢をぎこちなく身体の下にたくしこみ、後肢を交差させる。目は閉じられ、耳はぴくぴくと動いている。鼻から吹きだす荒い息のせいで角のまわりに埃が舞っている図は、山にかかった霧のようだ。数分後、呼吸は落ち着いた。
「どうした? 腹は空いてないのか?」フェストはジェーンに目くばせをしながら言った。彼はダグラスの頭の横にしゃがみこんだ。その身体とダグラスの頭は大きさがほぼ同じだ。ダグラスの閉じた目から流れる涙が光っている。フェストは布を取りだしてやさしく拭ってやった。ダグラスは生まれたときから動物園のコンクリートの上で暮らしてきた。その後、花粉症にかかっているとわかり、ケニアに送られてきたのだ。
「日焼けと花粉症でつらいんだな。おまえ、本当にアフリカ生まれなのか?」フェストはダグラスの角を撫でながら言った。ダグラスは片耳をぴくぴくさせた。「目薬を持ってこよう」フェストが飼育舎に戻っていく。
ジェーンはふたたび双眼鏡で周囲を確認した。
飼育舎にはほかにも多くの動物がいて、肉食動物が侵入できないように電子柵がめぐらされている。ゾウは電子柵の怖さを学んでいるので入ってこようとはしない。ダグラスといっしょにそこで暮らしているのはオリックスとジャクソンハーテビーストという二種類のアンテロープ、それにグレビーシマウマだ。ジャクソンハーテビーストとは変わった名前だが、顔も独特だ。視界にオリックスが入ってくる。その角は空に突きささりそうなほど鋭く、V字型にのびている。
東側の向こうにある隣の飼育舎にはキタシロサイが二頭いる。ダグラスの娘と孫娘で、名前はウズリとネーマ。二頭は枯れた草をはんでいた。木陰には警護にあたっているふたりの自然保護官【レンジャー】がいる。その姿は地平線を背にしてシルエットになっているが、肩にライフルを掛けていて、ひとりが双眼鏡を目にあてているのがわかる。
このふたつの飼育舎の向こうの、四方に広がる土地はすべてバンダリ自然保護区に含まれている。ジェーンがいまいる場所からは、双眼鏡を使っても境界線のフェンスは見えない。この保護区は観光客の宿泊施設、放牧場、レンジャー事務所、犬舎、さらに何百種類もの哺乳類、鳥類、は虫類、両生類、昆虫が生息する四百平方キロメートルのサバンナで構成されている。
ジェーンは双眼鏡を置いて空をあおぎ、ひと息ついた。
頭上を大きな鳥が飛んでいく。尾が二股に分かれている。タカか、大型のワシだろう。もう遠くにいるが、鳴き声が鋭く響いてくる。
フェストが戻ってきた。帽子のつばの下から満面の笑みが覗いている。彼はウガンダの山麓に住むキガ族の出身で、ほっそりとした身体つきの穏やかな男性だ。片手で目薬が入った大きなボトルを、もう片方の手で固形飼料【ペレット】が入った袋を抱えている。サイは高原の枯れた草よりもペレットのほうを好む。ペレットの袋が地面に置かれると、その音に気づいてダグラスが頭を上げた。
ダグラスは地球に残されたキタシロサイのオスの最後の一頭だった。ゆえにこうして管理の行き届いたところにいるのだ。
『overkill』by Vanda Symon 冒頭部試訳 その2
男が戻ってきて道具袋をテーブルの上に叩きつけるように置いた。
「なぜ?」ギャビィはもう一度言った。「なぜこんなことをするの? わたしがあなたに何かした?」
「おれに? 何もしてない。おれはただ仕事をしているだけだ。まずいことってのは、いつ起こるかわからないもんなんだよ」男は滑り落ちそうになったアンジェリカを抱えあげた。「早く遺書を書け。おれを本気で怒らせるまえに」
ギャビィはペンを持ち、なんと書けばいいか考えた。自分の意志ではない、強制されたものだということをわかってもらうにはどう書けば? 自殺なんて考えたこともなかった。この数カ月はひどくつらかったけれど、夫を愛していたし、心の糧となっている娘もいる。ロッキーもそのことをよくわかっている。母だってそうだ。アンジェリカを残して死ぬはずがないとわかってくれるはずだ。
ギャビィは立ちあがった。男の筋肉が張りつめた。しかし彼女がテーブルの上のティッシュに手をのばしただけとわかり、力を抜いた。ギャビィは窓の外を見たが、そこには誰もいなかった。助けは望めない。自分でなんとかするしかない。使用済みのティッシュをポケットに押しこみ、さっきこっそり書いたメモを向こうに放ったこと後悔した。だが、いまさら悔やんでも遅い。いや、やっぱりそれでよかったのかもしれない。ポケットに入れたらいずれ男に見つかっていただろう。
深呼吸をし、遺書に集中する。慎重に文字を書いていく。手の震えによる乱れを最小限に抑えるよう努めながら。これに込めた意味が伝わることを願うしかない。何かおかしい、妻らしくない、とロッキーが気づいてくれることを願うしかない。
「書いたわ。ほら」
「物分りがよくなってうれしいね」男はそう言ってギャビィのそばにやってきた。
男がメモを読むあいだ、ギャビィは固唾を飲んだ。
「いいだろう。やればできるじゃないか」男はギャビィの頭を、犬にするみたいになでた。ギャビィは男に触れられて震えあがった。
アンジェリカはぐずりはじめていた。男の腕から身を乗りだし、母親のほうに手をのばしている。ギャビィも手をのばしたが、男は赤ん坊を抱えてテーブルをまわり、向かい側の席に戻った。
「今度は何?」ギャビィは抑揚のない声で訊いた。背を丸め、両手を力なく膝の上に置く。男とギャビィのあいだのテーブルに置いてある道具袋は、彼女と娘をさえぎる障壁にもなっている。
「仕事に取りかかる」
男は道具袋のファスナーを全開にした。中から小さなロールケースを取りだし、アンジェリカの手が届きそうなところに置く。つぎに大きな黒い布を丸めたものを出し、それをカーペットの上に広げていく。ギャビィの心臓はとまりそうになった。胃液がこみあげてくる。それは、映画によく出てくる死体袋だった。
「これからあんたにするのはこれだよ」男は最初に取りだしたロールケースを広げた。なかには数本の注射器、細長い小瓶、錠剤が一個づつアルミシートに包装された処方薬の小箱が入っていた。「まず注射を打つが、できるだけ痛くないようにしてやる。抵抗したり余計なことをしたら、娘を殺しておまえがやったように見せかけてやるからな。言うとおりにすればそんなことはしない。娘も放してやる」
ギャビィは、向かい側で道具袋を覗いているアンジェリカを見た。とめどなく溢れだす涙を、こらえることができない。
「娘を放すって、どうやったら信じられるのよ」ギャビイは弱々しく言った。
「ほかに選択肢があるか?」
ギャビイは、男が注射器で小瓶のなかの液体を吸いあげる慣れた手つきを見つめた。もし、いま飛びかかったら……と一瞬考えた。注射器を奪って男の首にさす――だめだ、男の身体が大きすぎる。そばにはアンジェリカがいるのだ。男は自分のやっていることを熟知している。言うとおり、これは仕事のひとつにすぎないのだろう。
「水を一杯持ってこい」
ギャビイが顔をあげると、男は赤ん坊の後ろにまわって薬液が入った注射器をその肩にあてた。アンジェリカは空になった小瓶で遊び、それを口に持っていこうとしている。
「だめよ、アンジェリカ。それはマンマじゃないの」ギャビイはそう言って思わず立ちあがり、ガラス瓶を取りあげようとした。
「水を持ってこい!」
ギャビイは手を引っこめた。
キッチンに入って食器棚からグラスを取りだし、それを持ってシンクまで行ったとき、ラックに立てかけてある包丁に目がいった。後ろを見ると、男と目があった。男は、なんだ? と言うように眉毛を吊りあげると、アンジェリカの髪を指で梳きはじめた。ギャビイは目をそむけ、グラスに水を入れた。テーブルに戻って椅子にすわる。グラスをきつく握りしめる。
男は錠剤の小箱をギャビイに向けて放った。ギャビイはそれをつかみ損ねた。小箱は彼女の胸にあたってテーブルの上に落ちた。
「それを飲め。五錠か六錠ぐらいでいい」
震える手で箱を開け、アルミシートから錠剤を取りだして掌【てのひら】に四つのせる。ひとつは床に落ちた。
「拾え」前かがみになって拾おうとしたが、指がすべってなかなかつかめない。ようやくつかみ、さっき出した錠剤の横にそっと置いた。横目で小箱のラベルをちらりと見たとき、全身が凍りついた。処方箋の氏名欄に書かれていたのはギャビイの名前だった。
「いったいどういうことなの? わたしが何をしたっていうのよ。こんな仕打ちをされるようなことをしたの? お願い、教えて」
「知らないね。おれは仕事をやって金をもらうだけなんだ。わかったら黙って薬を飲め」男はアンジェリカの髪の毛を後ろに引っぱって、喉に注射針を突きつけた。
「やめて!」ギャビイは叫んで立ちあがった。アンジェリカは髪を引っぱられるのを嫌がって甲高い声をあげ、手足をばたばたさせている。男がようやく手を離すと、アンジェリカは頭をさすりはじめた。顔には赤い斑点がまだらに広がっている。「飲むわ、飲むから」錠剤を口に放りこみ、吐かないようにグラスの水を全部飲んだ。それから、手をのばして懇願した。
「お願い、抱かせて、お願い」
「まだだ」男は居間に向かって頭を動かした。「あっちに行ってソファに横になれ」
いうことのきかない脚をやっとのことで動かしながら、テーブルをまわって居間に行く。アンジェリカは、自分を捨てて自殺した母親をどう思いながら成長していくのだろう。涙があふれでて、頬を伝う。
だめだ。
そんなことはできない。戦わずに言いなりになってはだめだ。決心が鈍るまえにギャビィはくるりと向きを変え、男に飛びかかった。
瞬時に、残酷な仕打ちを受けた。
男は赤ん坊を床に落とした。アンジェリカは火がついたように泣きだした。ギャビィは胸が張り裂けそうになった。そのとき男の大きな手がのびてきて喉に布をまきつけた。身体を持ちあげられて足が宙に浮く。どんなに動いても、足は空気を蹴るだけだった。やがてソファの上に放りなげられた。その衝撃で肺から空気が全部抜けてしまったような気がした。すぐさま男はアンジェリカの髪の毛を引っぱって拾いあげた。
『overkill』by Vanda Symon 冒頭部試訳 その1
その日、ギャビィ・ノウズは死ぬ運命にあった。前触れは何もなかった。災いを告げるフクロウの鳴き声も、不吉な鐘の音も。人を疑うことを知らない彼女の育ちのよさが、死神を招き入れたのだった。
男は礼儀正しく身分証を見せ、この地区に通信障害が起きているので固定電話の回線をチェックしていると説明した。そして、お宅の電話はだいじょうぶですかと訊いた。ギャビィは、男と飼い犬のレイダーを玄関口に残して家のなかに戻った。電話は寝室にある。毎朝実家の母に電話するのが日課となっているのだが、今朝は娘のアンジェリカが初めて歩いた話に母が大興奮していたのを思い出して顔がほころんだ。
居間のほうから、アンジェリカがおもちゃのブロックで遊んでいる音が聞こえてくる。
寝室に入って電話の通話ボタンを押すと、たしかに発信音がない。
「ほんとだわ、回線が切れてるいみたい」ギャビィは玄関に戻りながら言った。「一時間前に母と話していたときはだいじょうぶだったのに。どこの家もこうなってるの?」
「このブロック一帯だけです。おそらく局所的な障害でしょう」と男は答えた。
「直るまでどれぐらいかかるのかしら」
「そうですね、お宅にあるモジュラージャックをひとつひとつチェックしていきますので」男はそう言いながらかがむと、足元に置いていた大きな黒い道具袋を持ちあげた。「二時間もあれば終わるかと」
ギャビィは男のために玄関ドアを広くあけてやった。「わかったわ、どうぞ入って。あ、靴は脱いでくださる? カーペットを変えたばかりだからちょっともったいなくって」
「かまいませんよ」男は道具袋を置いて作業ブーツの紐をほどいた。「それで、モジュラージャックはどこでしょうか」
ギャビィは廊下を進み、寝室を指さした。「そこにひとつ、それからその部屋の向こうのダイニングにひとつと」そこまで言うと、今度は手を右側に振った。「あとひとつはこの先の真正面の部屋よ。わたしは犬を別の部屋に入れておくから安心して作業してください」ギャビィはレイダーの首輪をつかんだ。
「どうも。じゃ、そこの部屋から調べていきましょう」男は寝室を指さすと、道具袋をどかせて玄関ドアを閉めた。
ギャビィは、男が寝室に入って作業をはじめる様子をしばらく見ていた。
「じゃ、あとはおまかせするわ」そう言うと犬を奥の客間に入れ、居間に戻った。アンジェリカが、色とりどりのレゴブロックに囲まれて床にすわっている。ギャビィはかがみこんでその金色の頭のてっぺんにキスをしてから、洗濯の続きにとりかかった。洗い終わった衣類を洗濯機から出し、また汚れ物を入れる。たったひとりの子供が生みだす汚れ物の量には驚かされるばかりだ。最後のタオルを放りこんだとき、足音が聞こえた。振りむいて、ぎょっとした。電話会社の男がアンジェリカを脇に抱えてキッチンに入ってきたのだ。
「あ、あら、娘を拾ってくださったのね。さあ、ママのところへいらっしゃい、アンジェリカ」ギャビィは手をのばして娘を受けとろうとした。
だが男は後ずさってテーブルの向こうへ行くと、ギャビィを見つめた。
「すわって」と男は言った。
「は? いいから娘をかえしてちょうだい」ギャビィはふたたび手をのばした。
「すわるんだ」男から愛想のよさはすっかり消えている。
「何を言ってるの? 娘をかえして」テーブルをまわって男に歩みよる。えもいわれぬ不安で胃がずしりと重くなった。
「すわれと言ってるだろ」その声には有無を言わさぬ響きがあった。男は右手のポケットから飛びだしナイフのようなものを取りだした。「かわいい娘だ。顔に傷がついたらさぞかし悲しいだろう」
両脚はもはや体重を支えられなくなり、ギャビィは腰をおろした。心臓の激しく鼓動する音が頭のなかで響き、相手の声がよく聞こえない。視界の端が灰色にぼやけはじめる。深く息を吸い、自分に言いきかせた。気を失っちゃだめ。考えるのよ。何かを見つけなきゃ。なんでもいいから、武器になるものを。だがアンジェリカから目を離すこともできない。娘は見知らぬ男の腕のなかで、何も知らずに笑っている。
「事を簡単にするのも難しくするのもあんた次第だ」男はアンジェリカを揺すりながら言った。「あんたに書いてほしいことがある」
「お金がほしいなら、寝室に財布があるわ。持っていって。なんでも持っていって。だから娘はかえしてちょうだい」
「金? 金はいらない。そういう単純な話じゃない」
男はナイフの先をそっとアンジェリカの顎に突きつけた。アンジェリカはきゃっきゃっと笑い、手をのばしてナイフをつかもうとしている。ギャビィは、胃の中身が逆流しそうになるのを必死で抑えた。吐くのも気を失うのも絶対に許されない。気をしっかりと持たなければ。どうか、男を刺激するようなことはしないでくれと祈るような視線をアンジェリカに向ける。しかし、すぐに恐怖を上まわる怒りがこみあげてきて思わず立ちあがった。
「何が望みなのよ、この変態! もし娘を傷つけたらあんたを殺してやる。絶対に」
「残念ながら、今日死ぬのはおれじゃない」嘲るような笑みが男の顔に広がった。「言っただろ、事を簡単にするのも難しくするのもあんた次第だって。おれは仕事でやってるんだ。個人的には子供を傷つけるのは好きじゃない。ただあんたが協力してくれれば仕事をすませるとこができるし、子供も無事だ。だがもし面倒を起こしたら……」男はナイフをすばやく動かしてアンジェリカの髪の毛を切った。
ギャビィは後ろに倒れこむようにふたたび腰をおろし、床に落ちるアンジェリカのカールした髪の毛を見ながら必死で吐き気と戦った。叫びたい衝動を抑えるため、口を両手で覆う。自制心を取り戻すのに数秒かかった。それからテーブルの上に両手を無理におろし、喉が締めつけられるような苦しさをこらえた。
「なんでもするわ」声を震わせながら言い、顔をあげて男の目を見た。「だから娘は傷つけないで。お願いよ。その子を放してちょうだい」
男はギャビィが信用できるか考えていたが、やがてナイフをおろしてテーブルの上に置いた。そのときの、カチッという音にギャビィは震えあがった。
「ペンと紙を用意しろ。書き置きをしてもらう」
ギャビィは手をのばし、電話の横にあるペンとメモ帳をつかんだ。手が震えているので、もう少しで落としてしまうところだった。「なんと書けばいいの?」
「そうだな、簡単なものにしよう。〝ごめんなさい、あなた。愛しているわ〟とか」
「なんですって?」
「教えてやるよ。あんたはこれから死ぬんだ。だから簡単に、遺書らしいことを書いてほしい。それだけだ。難しいことじゃないだろ? さあ」
その言葉に、みぞおちを殴られたようなショックを受けた。口から嗚咽が漏れ、身体を支えるためにテーブルの縁【ヘリ】をしっかりとつかんでいなければならなかった。男は背が高く筋肉質で、体重はおそらくギャビィの二倍はあるだろう。アンジェリカは、母親の腕のなかに戻りたがって身をよじっている。あまりに信じがたい状況に、ギャビィはテーブルを拳で叩き、泣きじゃくった。
「ガキみたいなまねはよせ。あんたのためにも娘のためにもならないぞ。おれは道具入れを持ってくるから、それまでに気持ちを落ち着かせておくんだ。おかしなまねをしたらその代償を払うのは娘だからな」男はアンジェリカを抱えたまま後ろを向き、廊下を通って寝室に行った。
考える時間はいましかない。自殺したと人に思わせてはだめだ。遺書など書くはずがないことをわかってもらわなくては。とっさに、震える手であることを書き、そのページを破って丸め、キッチンの隅の、古新聞を積みあげてあるところに投げた。うまくすれば、誰かに見つけてもらえるかもしれない。
男の戻ってくる足音がもう聞こえてきた。深く息を吸う。依然として心臓は早鐘を打っていたが、気持ちは妙に落ち着いてきた。この状況が他人事のように思え、自分はただの傍観者になったような気がした。すると、あることが頭に浮かび、それは質問となって口から出た。
「なぜ?」(続く)
『The Bird Tribunal』冒頭部試訳 その2
シーグルの寝室は一階の、キッチンと居間の先にあった。おそらく窓は庭に面しているだろう。仕事部屋へは寝室を通ってしか入れないようになっている、と彼は言った。
「ぼくはだいたいいつも仕事部屋にいる。長い時間こもっていることが多いが、できるだけ邪魔されたくないんでね」
わたしは、それが重要なことだと理解していることを示すために大きくうなずいた。
「悪いが車はないので自転車を使ってくれ。店はここから北へ二キロほど行ったところにある。道路ぞいだ。朝食は八時。固ゆで卵を二個、酢漬けのニシン、ライ麦パン二枚、ブラックコーヒーを頼む」彼は一気にまくしたてた。
「週末はきみの自由時間だ。好きに過ごしていい。だが外出しないのなら、いつもより一時間遅れでかまわないから朝食を用意してくれ。昼食は午後一時。軽くでいい。夕食は六時。食後にコーヒーとブランデーを」
ひととおりの要求を述べると、シーグルは仕事部屋に入っていった。わたしはキッチンでひとりになった。調理器具は古いがまだ充分使える。大きな音を立てないよう気をつけながら、引きだしや食器棚をあけてみる。冷蔵庫のなかにタラの身があった。夕食にはそれを使おう。
キッチンの引きだしのいちばん下に畳んだテーブルクロスがあった。それをテーブルに広げ、急いでふたり分の食卓を整える。
シーグルは六時きっかりに部屋から出てくると、テーブルの上座についた。料理を待っている。わたしはタラを調理したものを載せた皿をテーブルの真ん中に、ポテトが入ったボウルをシーグルの正面に置いた。そして自分もテーブルにつこうとして椅子を引いたとき、彼に手を振られてとめられた。
「きみはあとで食べなさい」わたしとは目をあわせず、真正面を見つめている。やってしまった。たぶん彼の指示を聞きのがしていたのだろう。
喉がつかえたような苦しさを覚えながら、何も言わずに急いで自分の皿をキッチンにさげる。みじめで、顔をあげられなかった。
シンクに水を溜め、シーグルが食べているあいだにフライパンやスプーンを洗った。彼は音も立てず、一度も顔をあげずに食べている。わたしは慣れない手つきでコーヒーを淹れ、シーグルの背後のガラズ棚からブランデーを取りだした。彼がフォークとナイフをテーブルに置いたのを合図に食器をさげる。コーヒーとブランデーをトレイにのせて運ぶ。手が震え、カップとグラスがぶつかってカタカタと鳴った。
ようやくシーグルは立ちあがり、短く礼を言って仕事部屋に戻った。わたしは自分の皿をテーブルに持ってきて、残ったポテトに溶けたバターをかけて冷めた料理を食べた。最後の洗い物を終えてテーブルと調理台を拭き、自分の部屋にあがった。荷ほどきをし、服や靴下や下着をたんすに入れる。本は机の上に積みかさねた。
携帯電話は、電源が切れているのを確かめてから引きだしに入れた。緊急時でもないかぎり、電源を入れるつもりはない。完全な静寂のなかで、物音を立てないように気をつけながら、ひとまずすわる。階下からはなんの音もしない。バスルームで用をすませ、ようやくベッドに入った。
鎌の刃はなまくらにちがいない。わたしは悪態をついた。渾身の力をこめて振りおろしても、湿った黄土色の雑草は横に倒れるだけで、刈られる運命を逃れていく。空はどんよりとしていて、空気は湿っている。シーグルは朝食のあとすぐに仕事部屋に入っていった。わたしは庭に出るまえに鏡を見たが、そこにうつっていたのはコスプレみたいな格好をした女だった。ズボンはかれこれ十五年も前の夏に実家のペンキ塗りをしたときに穿いていたもので、二、三日前、ここに来るための荷造りしているときに、たんすの奥からペンキのついたシャツといっしょに出てきたものだ。その翌日家を出るとき、両親はほっとしたような顔でわたしを送りだした。
腰が痛くなってきた。シャツは汗でびっしょりになっている。飛んでいる小さな虫がまとわりついてきて痒い。顔を掻くためにしょっちゅう作業を中断して手袋を脱がなければならない。黄土色の雑草の長い茎は、無駄な努力をあざ笑うかのように微風のなかで揺れている。わたしはふたたび力をこめて鎌を振りおろした。
「ぼくなら熊手を使うよ」
振りかえるとシーグルが立っていた。わたしの姿は彼の目にさぞ滑稽にうつったにちがいない。十五年前のぼろを着た、汗だくの女。髪の毛が顔に貼りついていたので、思わず手袋をはめた手で髪をかきあげる。そのとき、額に泥がついたのがわかった。
「濡れた草は、鎌では刈りにくいんだ」
「そうですね」笑顔を作ろうとしたが、やっぱりやめた。これ以上愚かなことはしたくない。
「昼食を忘れないでくれ」シーグルは時間を思いださせるように腕時計を指先で軽く叩くと、背を向けて去っていった。わたしはすばやく顔をあげた。上にはシーグルの仕事部屋の窓がある。彼は窓際から監視していたのだろう。そしてでたらめな庭仕事に我慢ならなくなってやってきたにちがいない。恥ずかしさがこみあげる。鎌を拾って道具小屋に戻し、かわりに鉄製の熊手をつかんだ。それを使って地面から草を乱暴に引きはがしていく。やがて手押し車はしおれた草でいっぱいになった。
自転車は、道具小屋の裏に積んである薪にたてかけてあった。プジョー社製の古くて軽いグレーの自転車で、タイヤは細く、ハンドルにはホーンがついている。
店までは十分とかからなかった。橋をわたってすぐの角にあるその店は、そこだけ時間がとまっているかのような、小さな食料雑貨店だった。入り口のドアをあけると、上についているベルが鳴った。客はひとりもいない。カウンターの向こうにいる年老いた女がこちらに向かって軽く会釈した。各棚には包装された食品、キッチンペーパー、蝋燭、種類の少ないパンなどが並んでいる。冷凍の陳列ケースもある。果物や野菜は量り売りされている。
老いた女主人の鋭い視線が背中に突きささってきた。その視線は、半分も埋まっていない棚のあいだを歩くわたしを執拗に追いかけてくる。間違いない。わたしが誰か知っているのだ。胃が締めつけられるような感じがし、いますぐにでも買い物かごを置いて逃げだしたくなった。なんとか女主人のところまで行き、彼女の目を見ずに買い物かごをカウンターの上に置く。レジを打つ老女の顔からは、何を考えているのかは読めない。手と顔は皺だらけで、口は小さく、口角がだらりとさがっている。そのとき、ふと思った。この女主人はもともとこういう感じのひとなのかもしれない。そう考えると急に気が軽くなった。わたしのことを知っているわけではない、きっと誰にでもこうなのだ。
自転車を漕ぎ、右手にフィヨルドを、左手に黒々と湿った岩壁を見ながら急いで家に向かう。サドルバッグに荷物を詰めた自転車で、隣町に通じる道路を走るわたしの横を車が何台も通り過ぎていく。スピードを保ったまま傾斜した私道に入り、その坂をくだって森を抜け、薪が積んであるところまで来ると自転車を降りた。そこから砂利道を歩いて玄関へ行き、家に入った。
ここは何かがおかしい。夫婦の家なのに庭は荒廃しきっている。車もなく、夫は一日中仕事部屋に閉じこもっている。妻はこのとおり、家にいない。漠然とした不安を感じながら買ったものをしまい、夕食の準備にとりかかった。
『The Bird Tribunal』冒頭部試訳 その1
『The Bird Tribunal』冒頭部試訳 その1
息が上がってきた。しんとした森のなかを、もうずいぶんと歩いている。たまに、鳥の甲高い鳴き声が聞こえてくる。灰色の裸の木やひょろ長くのびた若木、わずかに青緑色がかったビャクシンの若枝に四月の弱々しい陽光があたっている。大きな岩にそってカーブした小径を進むと、下草がのび放題になっているシラカバの並木道が見えてきた。どの木も天辺のほうの枝が作りかけの鳥の巣みたいにもつれている。並木道の終わりまでくると、白い塗料が禿げかけた杭垣と門があり、その向こうにスレート屋根の古風な木造家屋が建っていた。
静かに門をあけてポーチの階段をのぼり、玄関ドアまで行く。ノックをするが、返事はない。拍子抜けした気分になった。荷物をポーチの階段に置き、家のまわりを囲んでいる砂利道を進む。灌木が密生している家の側面をすぎて裏手の庭に出ると、すばらしい眺めに迎えられた。頂上のところどころに雪が残っているスミレ色の山並み、その手前にはフィヨルドが広がっている。
男は、庭の奥に植わっている細い樹木のそばに立っていた。紺色のウールのセーターに包まれた大きな背中をこっちに向けている。挨拶をしようと思って声をかけると、飛びあがるように驚いて振りかえった。そして片手をあげ、重そうなブーツを履いた足で黄土色の地面を横切ってこっちにやってくる。わたしは深呼吸をした。男の顔つきと身体を見るかぎり、歳は四十代ぐらいで、少なくとも介護を必要としているようには見えない。驚きを笑顔で隠して数歩近づいた。男の肌は浅黒く、体格はがっしりとしていて、わたしと視線をあわせないように前方を見据えたままでいる。
「シーグル・バッゲです」と彼は言った。
わたしは、アリス・ハグトーンだと名乗り、さしだされた大きな手を軽く握った。彼の表情に、こっちを知っているような様子はない。もっとも、演技がうまいだけなのかもしれないが。
「荷物は?」
「向こうに」とわたしは答えた。
シーグルの背後の庭には、灰色の冬の悲惨な爪痕が残されていた。草木は枯れ、藁は水びたしになり、バラは絡まり放題になっている。このままだと春が来たら――もうすぐそこまで来ているが――ジャングル状態になるだろう。彼はわたしの気持ちを察して言った。
「そう、手入れが必要なんだ」
わたしは微笑んでうなずいた。
「ここは妻の庭でね。彼女が留守のあいだ手入れをしてくれる人がほしかったんだ」
シーグルのあとについて玄関に向かった。彼はわたしの荷物を片手にひとつづつ持って家の中に入った。
古い階段をのぼり、これから使う部屋に案内された。幅のせまいベッド、たんす、机があるだけの、簡素な部屋。清潔な匂いがする。ベッドは花柄のシーツで整えられている。
「いい部屋ですね」
シーグルは何も言わずに振りかえり、頭をかしげてバスルームの場所をさし示してから部屋を出て階段をおりた。踊り場にドアがあったが、なんの部屋なのか説明はない。
彼の後ろにくっついて家を出て庭を横切り、敷地をまわっていくと小さな道具小屋があった。きしんだ音を響かせながら、シーグルが木造の扉をあけた。鋤、シャベル、金梃などが壁に掛かっている。
「長い雑草には鎌だよ。使い方は知っているかな」
わたしはうなずいて唾を呑みこんだ。
「必要なものは、だいたい揃っている。剪定ばさみやなんかもあるから、生垣も刈ってくれたら助かるよ。足りないものがあったら言ってくれ」
話しているあいだも目をあわせようとはしない。雇い人とは、最初にしかるべき距離を保つことが肝心だと思っているのだろう。
「求人に応募してきた人はたくさんいたのでしょうか」
シーグルは額にかかる黒い前髪の下からわたしをじろりと見た。
「何人かね」
見栄を張っているような感じだった。だが、そんなふうに思っていることは顔に出さないようにした。彼は雇い主であり、気分ひとつでこっちをどうにでもできるのだ。
わたしたちは引きつづき家のまわりを歩いて庭に入り、乾いた石壁ぞいに植わっている果樹を通りすぎた。空気はすがすがしく、湿った土と落ち葉の匂いがする。シーグルは低い鉄の門をまたぐと、振りかえってこっちを見た。
「錆びついてあかないんだ。これもなんとかしてほしい」
わたしも門をまたぎ、シーグルを追って庭の隅から下のフィヨルドへと続く急な石段をおりた。おりながら石段を数えると、ちょうど百段あった。下に着くと、いまにも崩れそうな舟小屋と石造りの小さな桟橋があった。桟橋の右側にはボートが繋げるようになっている。フィヨルドの岩壁がまわりを半円状に取りかこんでいるので、プライバシーは完全に保たれている。なんとなく、三十年近く前の夏に家族で過ごした知り合いの別荘に似ている気がした。そういえば、はじめて泳ぎを覚えたのもあそこだった。
「きれいなところですね」
そのうち舟小屋を取り壊そうと思っている、とシーグルは顔をそむけながら言った。フィヨルドから吹いてくる風が彼の髪を乱した。
「ボートをお持ちなんですか?」
いや、とそっけない答えが返ってきた。「このあたりには、きみにやってもらうことはない。ただ一応案内しておこうと思ってね」
シーグルはくるりと後ろを向くと、もと来た道を戻って石段をあがっていった。
(つづく)
『Six Stories』冒頭部試訳 その2
森のなかの開けた場所で足をとめ、水筒から紅茶をカップに注ぐ。どこもかしこも湿っているのですわりたくはない。詩人みたいなことを言うようだが、ひとはときに立ちどまり、静寂に耳を傾けたくなることがある。わたしもここに来ると、樹の下に立って静けさに耳を澄ますようになっていた。もっとも、はじめのころは片耳にイヤホンをつけていたが。
実際、森に静寂はない。耳を澄ますとさまざまな音が聞こえてくる。葉のさらさらとしたおしゃべりの声は、雨が降ればべらべらとまくしたてる騒々しい声になる。行ったり来たりしながら怒ったように鳴く朝の鳥の声のやかましさはもはや喜劇だ。
わたしは、夜は森に入らない。もう長いあいだ、そうしていた。
最後に暗い森に足を踏みいれたのは、二十年ほど前だった。あのときは、トゥモとジャスティンがいっしょだった。あの夜、あの少年を見つけたのだ。樹々がまばらになり、山頂に向かって地面は上り坂になり、土が泥に変わりはじめたあの場所で。
暗闇は好きにはなれない。闇が訪れると、あの光景が頭のなかでループする。
二十年近くたっても、あそこで見つけたものは記憶から消えることがない。
仮面の男はその気持ちがわかると言った。ある種の記憶は亡霊のようにいつまでもまとわりつくものなのだと。まさに、わたしと父はまとわりつかれていた。男は、それについて話してくれれば、何か助けになれるかもしれない、と言った。
助け。
それはわたしたちのような人間がもっとも期待していない言葉だ。セント・クレメント=ラムゼイ家の者が助けを必要としていると誰が思う? もちろん助けなど必要ない。わたしたちには富がある。裕福な人間が助けを必要とすることはない。
二十年前、わたしとトゥモとジャスティンがスカークロウ山を訪れたとき、ウッドランズ・センターはまだ存在していた。山と、ふもとに建つウッドランズ・センターと、周辺の森の所有者が父に代わったばかりのころで、そのときはまだハンティング・ロッジを建てる構想すらなかった。わたしたちは、ウッドランズ・センターに泊まることにした。トイレもシャワーも機能しているということだったので、宿泊にまったく問題ないと思っていた。
ウッドランズ・センターは合板とリノリウムでできた、いかにも七十年代っぽい建物だった。なかに入ると、下水と脱ぎたてのジャージの臭いがした。厨房にはベジーソーセージやフライドエッグの臭いが染みついていた。入り口周辺の床はブーツの足跡で泥だらけになっている。部屋の隅に置いてある折りたたみ椅子や塗装が施された金属のラジエーターにはクモの巣が張っている。ボーイ・スカウトなどの団体がここを使用していたのだろう。奥の壁には〝思い出といっしょにゴミも持ちかえりましょう〟と書かれた紙が貼ってあり、その下にクレープ・ペーパーでつくったクマの顔が飾ってある。片方の目は取れていて、黒のボールペンで描き加えられていた。
正直なところ、わたしたちは退屈していた。二十一歳かそこらで、大雨のせいで外に出ることもできず、午後じゅうビールを飲みながらモノポリーをしていた。酔いがまわると、たがいに当たり散らしはじめた。腹が空いていたが、誰も飯をつくる気はない。だがポテトチップスだけで腹は膨らまない。愚かな都会っ子たちは、この辺にテイクアウトの店がないなんて思いもしなかったのだ。しかも全員酒を飲んでいたので、誰かが車で売店を探しに行くこともできない。ジャスティンはヴィンテージのウィスキーを引っぱりだしてきた。気を失うまで飲もう、というわけだ。このままいけば九時には寝ついていることだろう。強風による樹々のざわめきなどものともせず、いびきをかきながら。
そうして一日が終わっていればなんの問題もなかった。
紅茶を飲みおえ、カップの底にたまった澱を茂みに捨てる。朝日が強さを増し、森じゅうに光が広がっていく。踏みかためられた小道ではなく、枝だらけの藪のほうに向かって歩みを進める。あのときもわたしたちはそこを歩いていた。あのときは酔っていたうえに地面はぬかるんでいたので、道がどこなのかわからなくなっていた。
もういちど振りかえる。ハンティング・ロッジの窓明かりが見える。当時、あの少年の目にはウッドランズ・センターが映っていたのだろうか。一九九六年、あの少年はここを通ってセンターに戻ろうとしていた。枝のあいだから見える風景はいまとそう変わらないはずだ。センターの窓明かりはぬくもりを連想させ、安堵感を与えたにちがいない。
森のなかを歩きつづける。地面が上り坂になりはじめたら要注意だ。いまは危険を知らせる看板が立っているが、以前はなかった。当時のセンターの利用者は危険を知らずに通っていたのだった。その坂道は自然にできたもので、ハンティング・ロッジ――すなわち当時のウッドランズ・センターから北西に向かって樹のあいだを縫うように数マイルのびている。わたしはその道に入った。
進むにつれ、過去の引力に抗えなくなっていく。自分の一部が記憶の糸に絡めとられていく。
そうして完全に吸収されてしまったような感覚に陥った。
それはある意味、間違いではなかった。